■
[数論]二次体の整数環の素イデアルをすべて求める(素イデアルとは何ぞや編)
さて、整数環の素イデアルを求める冒険を続けよう。
まず、素イデアルとは何か...いやまあ、なんでこんなことを言ってるのかというと底本での定義はp.287の冒頭に、
『イデアル(ただし)が1と以外のイデアルで割り切れないときにはを素イデアルという。』
とある。割り切れるという用語を前回の(*2)により包含関係に翻訳すると、これは任意のイデアルが ならかと言っている。いや、ちょっと待ってください、高木先生。これは極大イデアルの定義ではないですか?
実はその続きの素イデアル分解の話はこの極大イデアルの性質と(*2)とイデアルの世界でという定理5.10を使うので、これをこの時点では普通の素イデアルの定義(定理5.13のステートメント)と解釈してはいけない。なのでここでは素イデアルによる分解というより、極大イデアルによる分解となっている。極大イデアルは素イデアルなので素イデアル分解でも間違いではないかもしれないが、普通の定義での素イデアルがさらに極大イデアルの積に分解されてしまうかもしれないのである。
しかし、ご安心を。整数環では次に示すように((0)を除く)素イデアルはすべて極大イデアルなので不都合は起こらない。ただ、底本ではこの事実を示す必要はなかったが、『二次体の整数環の(普通の定義の)素イデアルをすべて求める』を問題にするならこの点には言及しておく必要がある。歴史的に見て、極大イデアルと素イデアルを区別する必要がなかった(当時の重要な数学的対象ではそれらは一致していた)時代の著作であったと理解するべきなのだろうか。前回も述べたが本書の初版が1931年で、昔の代数のテキストの代表と思われるvan der Waerden'Moderne Algebra'の初版が1930年である。それはそれとして、現時点で底本の素イデアルの定義をそのまま使うのは混乱のもとだと思うので以降は素イデアルといえば普通の定義()を意味する。
さて、整数環の((0)を除く)素イデアルは極大イデアルであることを示そう。まずは一般論であっさりと片付ける証明。
イデアルの構造定理を見ると、整数環を任意のイデアルで割った商環を考えると加群としてが成立している。この対応はの元に対して とと整数間の割り算しておいて、
とすればよい。特に、商環は有限で個の元しか持たないことがわかる(A=(0)だけ例外)。
さて、単位的環の一般論の定理として『元の数が有限の整域は体である』がある。この証明は次の通り。整域の0でない任意の元をとする。を掛けるというからへの写像をとする()。このときは単射となる。
最後の矢印はが整域だからである。一方、元の数が有限なので単射は全射となり、の像の中には1があるから、その原像はの逆元を与えることになる。すなわち 0以外の元の逆元が存在するから、は体である。
もう、仕掛けがわかったのではないだろうか。定義とこれらの結果を繋げるだけである。
商環は整域かつ有限 ⇒ 商環は体 ⇒ イデアルは極大イデアル。□
しかし、この証明だと素イデアルについて何も情報が得られないのが難点である。そこで底本の論法を使いつつ、別証明を行ってみる。底本 p.288の『素イデアルに含まれる最小の正の整数をとすれば、は素数である』がキーとなる。先の注意にあるようにここでの素イデアルは極大イデアルのことだが、証明を反省すると使っているのは定理5.13 つまり普通の素イデアルの定義であるため、このステートメントはそっくり普通の素イデアルと読み替えても成立している。この事実とイデアルの構造定理を組み合わせると、
あるいは
このとき はに含まれる最小の正の有理整数で素数である。
が得られる。がどこかへいってしまったが、からか。もしのときだったので、結局 もで割れることになり、それは結局イデアルとしては となる。ここで注意だが、最初に素イデアルありきなので、仮に勝手にを与えてもが素イデアルになっている保証はない。そもそもイデアルになっているかもアヤシイのであって、この点に関しては底本p.280の[問題2]に解答があり、がイデアルであることの必要十分条件は、である。実はこの条件は非常に重要で、以下に述べるように素イデアルを求める計算はほぼこれに尽きてしまうのである。この形のイデアルに関してもう一つ重要なのはそのノルムであり、底本p.284 定理5.9により となる。
さて、素イデアルのノルムはどうなるだろうか。上記の素イデアルの構造定理によると、型のとき、または 型のときの2つがあることがわかる。別の論法としては、はそれに含まれる最小の正の有理整数をとするとき、は素数で 。するとイデアルが存在して、となるが、両辺のノルムをとることでとなる。すると可能性はもう かしかないことになる。前者だと必然的に、後者だとからとなり、となっている。ところでのケースは実は自動的にが極大イデアルとなる。なぜなら、からイデアルが存在して、となるが、両辺のノルムをとると となり、かのどちらかが成立してしまい、前者なら、後者ならすなわちとなる。よって極大イデアルかどうか問題になるのはという形の素イデアルである。ここでが素イデアルかどうかは別にして、を含む真に大きなイデアルを考えてみよう。もしがと素な有理整数を含むと結局1を含むことになるのでとなってしまう。このため、が含む正の有理整数で最小のものは同じくである。すると素イデアルの構造定理とまったく同じ議論で、より真に大きいイデアルとしてはの形しかないことがわかる。しかも、このイデアルが存在すればそのノルムはであることから極大イデアルとなる。かつ と分解する。この分解が存在するとは素イデアルではありえないことになる。それはより または だが、が極大イデアルであるため、またはまたはとなるが、いずれも矛盾となるからである。つまり、が素イデアルならそれを含む自明でないイデアルは存在しない、すなわち極大イデアルなのである。
まとめてみよう。整数環の((0)を除く)素イデアルは
i) 型のイデアルであり、その存在の必要十分条件はであること。
ii) 型のイデアルであり、その存在の必要十分条件は型のイデアルが存在しないこと、つまり、がどんなに対しても成立しないこと。
となる。次回は本シリーズの(たぶん)最終回、計算編である。
(追記)
記事を書き終えてから、素イデアルが極大イデアルになることはもっと簡単に示せることに気づいた。
必要な道具は、『任意のイデアルは有限個の極大イデアルの積に分解できる』だけである。素イデアルが有限個の極大イデアルの積に分解されてしまうなら、素イデアルの定義を繰り返し使うことでその極大イデアルのどれかと一致することがわかるからである。しかし『任意のイデアルは有限個の極大イデアルの積に分解できる』は底本p.287 定理5.12にさらっと書かれているが、包含関係と整除関係が同値であること(対象が極大イデアルでないときには少なくとも一つの極大イデアルが存在して、それで整除されること)、イデアルのノルムが定義されて有限であること(どこかで分解が止まること)の2つが効いているようである。