生成言語学をこっそり学ぶ(その1)

ゴールデンウイーク企画ということで、暇にまかせて生成言語学を勉強してみようということです。
計算論の絡みで前から興味はあったものの、なかなかきっかけがなかったのですが、

新・自然科学としての言語学―生成文法とは何か (ちくま学芸文庫)

新・自然科学としての言語学―生成文法とは何か (ちくま学芸文庫)

を本屋で立ち読みした時に、付録として収録されている黒田成幸氏の『数学と生成文法』の怪しさに惹かれて本書を購入したのが事の始まりでした。(家に帰って冷静に読んでみると、んーよくわからないというのが結論でした。まあ、エッセーなので)


その次に読んだのがこれ。

生成文法の企て (岩波現代文庫)

生成文法の企て (岩波現代文庫)

訳者の福井直樹氏の序文がすばらしいということであるのですが、『新・自然科学としての言語学』を読んだ後だったので少々かぶった感があります。チョムスキー氏との対談については、半分はかなり専門的な話で用語の説明がいちいちついているでもなく、まあさらっと流し読みなのですが、私の興味のある二部の第二章の『形式文法の諸問題』については、チョムスキー氏いわく『昔はワシもやってたけど、今は興味ないなぁ。形式化なんていつでもできるし。大した結果でてないし、あんまり難しい数学使いたくないし』(大いに意訳と曲解あり)ということでちょっとアレって感じですが、一つの理由として形式文法理論の「強生成力」があまり議論されていないという点があるようです。


このあたりについては、『新・自然科学としての言語学』のP.27(およびP.336)にも、大雑把であると断ってあるものの、過去の形式文法理論は文法の「弱生成力」に着目しており、言語学として重要な「強生成力」の理論が無かったという点が指摘されています。

ついでながらチョムスキーが『生成文法の企て』で可能世界意味論をこきおろしてるところはショック。まあ、言語学と哲学は目指している場所が違うということで…。


で、キーワードである「弱生成力」と「強生成力」なのですが、驚いたことにWeb検索でほとんど何も引っかかりません。大丈夫なのか、日本の生成文法研究は?とちょっと心配してしまいました。まあ、それはそれとして、ここは英語圏情報に頼りましょう。

「弱生成力=weak generative capacity」、「強生成力=strong generative capacity」

ざっくり文法理論というのは、ルールの集合+語彙の集合で、ルールを適用していくと最後には語彙の有限列(=発話可能で意味のある文)ができるようなものですが、「弱生成力」というのは明確で、それらの有限列の全体の集合(=言語)を作り出す能力のことです。同じ言語を作り出す文法はすべて「弱生成力」が同じという定義です。さて一方、「強生成力」はちょっと微妙なところがあって、上記の語彙の有限列を作り出す際に実は対応する構造記述(句構造文法だと解析木)も生成されており、その構造記述も込めて同じ言語を生成できる能力を「強生成力」と呼んでいるようです。(私が微妙だと感じるのは、構造記述というのが文法理論に依存しており、それらの相互比較をどうやってやるのかという点です。老婆心ながら、同一の深層構造を作り出す能力が「強生成力」、同一の表層構造を作り出すのが「弱生成力」とやれればきれいなんですが、これは間違い。定義によると表層構造も解析木の構造を持っているので。)


ところで文法理論と証明論というのがパラレルなのはよく知られた話(Post prodcution system と Turing machineの等価性などなど)で、「弱生成力」が同じとは公理系が同じ定理の集合を生成できることとなります。「強生成力」が同じとは証明木までもが同じ??という意味になりそうですが、なんだか強すぎてトリビアルな結果(=公理系がほぼ一つに決まる)になりそうですが、それが言語論としては欲しい結果なのでしょうか...直感的には『「強生成力」が同じ=意味のシステムとして同じ』と言いたいように思えますのでもうすこし弱い条件であるべきだと思われます...そのあたりが福井氏が黒田氏の位相論的アプローチを評価している理由なのかもしれません。


休み中どこまでいけるかわかりませんが、手始めに『生成文法の企て』の参考文献に挙がっていた変換文法の形式化の古典的論文である Peters, Ritchie 『On the generative power of transformational Grammars』を読んでみようと思っています。ありがたいことにネットにPDFが落ちています。でも、チョムスキー的にはこの論文、あんまり評価してないような...